体に残った傷の数、53。この一点だけで、もう十分に異常な人物だと分かる。
原虎胤の読み方と、鬼美濃と呼ばれた理由
はらとらたね、武田の足軽大将
読みは、はらとらたね。戦国時代の武将で、はじめは千葉氏当主の千葉勝胤に仕え、のちに甲斐武田氏の足軽大将となった人物。虎胤は諱で、信知と記す資料もある。美濃守を称し、剃髪してからは清岩と号した。武田の五名臣、そして武田二十四将の一人に数えられる。
生没年は1497年から1564年。武田信虎と信玄の二代にわたって仕え続けた猛将だ。
信虎と信玄。この親子、方針も気性もまるで違う。その両方の下で最前線に立ち続けた事実が、まず地味に凄い。
城攻めの巧さが異名を連れてきた
鬼美濃という呼び名、単に強かったから付いたわけじゃない。
虎胤は効率のいい城攻めに長けていて、奪い取った城をそのまま補修せずに使える攻略法を得意としていた。1551年には、信濃守護の小笠原長時の属城だった平瀬城を攻め落とし、そのまま城将を務めている。
壊さずに獲る。この発想が、当時どれほど厄介な相手だったか。城を落とされた側は、翌日には自分たちの城壁の内側から武田の旗を見上げることになるわけで。
甲斐の鬼美濃として、隣国にまで名が轟いた。
房総を追われた男が、甲斐で名を上げるまで
小弓城を失い、父と流れた
出自をたどると、意外な土地に行き着く。
原氏の先祖は下総千葉氏の名門・原氏。虎胤の父である原友胤の代には、千葉氏の重臣として臼井小弓城を任されていた。ところが1517年、足利義明が真里谷氏とともに小弓城を攻めた合戦で領地を追われ、千葉氏にはそれを取り返す力が残っていなかった。親子は甲斐の武田信直、のちの信虎を頼ることになる。
つまり虎胤は、生まれ育った房総半島を二十歳そこそこで失っている。帰る場所がない状態から、他国で一から積み上げた男。
信虎から虎の一字を受け取る
父の友胤が信虎のもとで功を挙げ、虎胤も信虎から虎の一字を賜って足軽大将となった。1521年の飯田河原の戦いでは、今川軍の福島正成を討ち取る大功を立てている。
この福島正成という人物、北条綱成の実父にあたる。討った側と討たれた側の子が、のちに同じ戦国の盤面で動くことになるわけで、こういう縁の絡み方は何度見ても唸る。
傷53か所の体で、敵将に肩を貸す
38度の戦、11度の功名
生涯で参戦した戦は38度。体には53か所の傷跡があったと伝わる。
10度の戦があれば11度の功名をあげる。そう賞賛された。
回数より多い手柄。理屈としては変なんだけど、言い回しとしての破壊力がすごい。
恐れられた男の、記録に残った素顔
ここからが、私がこの人を好きになった部分。
戦場で負傷した敵将に肩を貸し、送り届けたという逸話が残っている。
武勇で鬼と呼ばれながら、負傷した敵将を敵陣まで届けるような、情の深い大将だったと伝わる。
鬼、と呼ばれた人間がやることじゃない。しかもこれ、味方から見れば理解しがたい行動でしょ。それでも記録として残っているということは、周囲がその振る舞いを恥じずに書き残したということでもある。
ついでに、娘たちの縁組の話も面白い。虎胤の娘の一人は、鬼虎と呼ばれた小畠虎盛の子である小幡昌盛の正室になった。信玄が、鬼の子には鬼の娘が似合うとして取り計らったと言われている。
鬼と鬼の縁組。信玄、こういうところで妙に茶目っ気を出す。
宗旨を曲げず、甲斐を追われた三年間
法度に背いた代償
無敵の猛将、で終わらないのがこの人の厚み。
1553年、宗旨をめぐる問題で信玄と衝突する。日蓮宗の信者だった虎胤は、浄土宗への改宗を迫られてこれを拒んだ。結果、一時的に甲斐を追放されている。
日蓮宗と浄土宗の法論が起きた際に、甲州法度之次第に背いて浄土宗に肩入れしたことが原因だという説もある。
伝わり方に揺れはある。ただ、信仰を理由に主君と折れ合わなかった、という骨格は共通している。
五十代半ば。武田家中で最上位に近い場所にいた男が、そこを手放した。ずしりとくる。
北条氏康が惜しんだ帰参
甲斐を出た虎胤は相模の北条氏を頼り、善得寺の会盟の際に武田へ戻った。この帰参のとき、北条氏康は惜別の情を示したと伝わる。
虎胤が身を寄せてきたとき、氏康はその勇名を喜んで大いに歓迎したという。
一方で、この出奔そのものが隠密としての任務だったのではないか、という見方もある。
真相は分からない。分からないまま置いておくのが、この逸話の味だとも思う。
私が原虎胤を調べ始めた夜のこと
序盤で拾った、名前も知らない一枚
信長の野望の系列を触っていたときのこと。
序盤、手駒が足りない。育てられる武将を探して名簿をぱらぱら眺めていた手が、聞いたことのない名前で止まった。原虎胤。武勇の数字がやたら高い。出陣のほうでは武勇87を持ち、覚醒によって足軽練兵所の効果上昇を習得できる。
正直、最初は数字だけ見て編成に放り込んだ。誰なのかは知らないまま。
列伝の一行から抜け出せなくなる
数日後、たまたま列伝を開いた。そこに、生涯で38度の合戦に参加した、と書いてあった。
……38度。
指が止まった。画面の光を見つめたまま、私は電卓を叩いていた。年齢と照らして、どれくらいの頻度で戦場に立てば38度になるのか。計算しながら、首の後ろがじわりと汗ばんできた。
そこから止まらなくなった。傷の数を知り、追放の経緯を知り、敵将に肩を貸した話に行き着いたころには、外がうっすら白んでいた。マウスを持つ手が冷えきっていて、指先の感覚がない。
ゲームの一枚のカードが、実在した人間として立ち上がってくる瞬間。あれ、癖になるんですよ。
翌日、私は編成を組み直した。数字で選んだ武将を、今度は納得して先鋒に置いた。勝率が上がったかは分からない。ただ、部隊を進めるときの気分がまるで違った。
鬼美濃という名が、馬場信春へ渡るまで
美濃守の受領名ごと譲られた
虎胤の物語は、彼の死で終わらない。
1562年、前年に隠退した虎胤にあやかって、馬場信房は美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名した。
このとき、虎胤の鬼美濃という異名まで引き継いだとされ、以後の馬場信春は武田家中随一の猛将として知られていく。
ただし、名乗りが許された時期については諸説ある。馬場信春が1559年ごろにすでに美濃守を称していたことを示す文書が残っており、受領名の授与はもっと早い時期だった可能性も指摘されている。
二人の鬼美濃を並べてみる
対比すると、この継承の妙が浮かび上がる。
馬場信春は武田三代に仕えた40数年で70回を超える戦に出ながら、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったと伝わる。そのため後世、不死身の鬼美濃と呼ばれた。
傷53か所の初代と、無傷の二代目。同じ異名を背負いながら、体の在り方が真逆。
こういう並びを見つけると、ぞくりとする。名前は受け継がれても、その名を成り立たせている中身は別物だったわけで。
ゲームの中の原虎胤と、夜叉美濃という表記
タイトルごとに違う顔
ゲームでの扱いは、シリーズによって幅がある。
信長の野望 天下への道では、固有戦法が50パーセントの確率で発動する自律戦法として設定されている。武勇の伸びがよく、統率も十分な数値を持つため、武将が揃わない序盤では副将でも大将でも運用できる。
出陣のほうは会心率上昇・足軽の特性を持ち、会心発動時の効果を引き出しやすい。登用だけでなく茶室交流でも入手できる。
覇道ではR相当のレアリティで登場し、兵科適性や技能が設定されている。
序盤から触れる機会が多い武将、という位置づけが多い。だからこそ、名前を覚える前に編成に入っている人が多いんだと思う。
鬼か、夜叉か
ここ、調べていて引っかかった点がある。
信長の野望 新生の列伝では、城攻めに長じ、情けに厚い豪傑として、夜叉美濃の異名をとったと書かれている。
夜叉美濃。鬼美濃じゃない。
歴史系の資料の多くは鬼美濃で通しているのに、ゲームの列伝では夜叉美濃が採用されている。両方の呼び名が流通しているということになる。どちらが古い形なのか、私の手元では断定できない。
ただ、この揺れに気づいてから、武将紹介の一行一行を読む目が変わった。ゲームの列伝は要約されているぶん、どの伝承を採ったかが透けて見える。編集の痕跡というやつ。
鬼か、夜叉か。呼び名を二つ持ったまま、この男は今日もどこかの盤上で足軽を率いている。
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